水戸地方裁判所 昭和40年(ワ)215号 判決 1968年2月24日
理由
一 被告が、原告主張のとおり、川崎福之介の印鑑証明書を交付した事実については、当事者間に争いがない。
《証拠》によれば、川崎福之介の実子たる深谷きみ子が、福之介名義の偽造印鑑を使用して、被告に印鑑証明書の交付を申請し、それに対し被告の吏員が照合したうえで印鑑証明書を交付した事実、きみ子が原告主張のとおり、この偽造印鑑を押捺した川崎福之介振出の手形四通にこの印鑑証明をそえて、原告に手形を担保とする貸付を依頼し、それにより原告は、きみ子に金一、三八〇、〇〇〇円を貸付けることになり、利息を差引いて一、三〇〇、〇〇〇円を交付したが、その後手形が不渡りとなり、きみ子は現在行方不明であり、同人から弁済を受けることは不可能となり、他方当時資力のあつた福之介も、自己の振出による手形でないことを理由に支払を拒絶したため、原告は一、三〇〇、〇〇〇円の損害を受けた事実を認めることができる。
二 まず、印鑑証明事務が、国家賠償法第一条に、いわゆる「公権力の行使」に該当するかどうかについて検討する。
印鑑証明事務は、古くから市町村が慣行的に行つて来たものであるが、現行法上地方自治法第二条第二項、同条第三項第一六号に定める、住民の身分証明等に関する事務の一種として、地方公共団体たる市町村の処理すべき事務とされ、通常、各市町村の定める条例に基いてこれを行つているのであつて、その性質は、私人の利便のために行われる公証事務であり、一種の公証行為であるから、地方公共団体の権力作用と解すべきであり、国家賠償法にいうところの公権力の行使に該当する。
三 次に、被告の吏員に過失があつたかどうか、そして原告の被つた損害が、被告の吏員の過失に基くものかどうか、について判断する。
那珂湊市における、印鑑証明書の交付申請の手続についてみると、那珂湊市印鑑条例第一三条第一項に、「印鑑の登録を受けている者が、印鑑の証明を受けようとするときは、手数料を納付して、印鑑証明交付申請書に印鑑をそえて、市長に申請しなければならない。」同条第二項に、「代理人によつて、印鑑の証明を申請する場合には、申請者の登録してある印鑑を押印した委任状をそえなければならない。」とあり、本件印鑑証明書交付当時は、規定を欠いたがその後、第三項が追加され「前項の代理人の資格は、本市の住民であつて、印鑑登録をしている成年者でなければならない。」とある。また第一四条第一号、第四号には、「印鑑がき損、磨滅のため照合困難と認められるとき、及び証明の申請が、本人の意志によらないと認められたときは、市長は証明を拒否することができる。」とあり、第一五条には、「市長は、印鑑に関する申請または証明について、特に必要があると認めるときは、文書その他の方法で申請人に対して照会し、事実を確認したうえで処理する。」と規定している。
ところで、印鑑は、その印影の顕出あることによつて、文書に表示された自己の意思を確認すると共に、その文言に責任を負う旨を表明するものであり、わが国においては、取引その他の法律関係において、重要な役割をもち、署名と同じく、あるいはそれ以上に重視されており、特に、市町村の交付する印鑑証明書は、私人の取引上において重要な機能を営むことは、明らかな事実である。したがつて、この証明事務は、私人の権利義務に重大な影響を及ぼすものであり、この手続は慎重に行われなければならない。
それゆえ、一般に市町村の吏員が、印鑑証明書を交付する際、その印鑑を照合するにあたり、また出頭した者が代理人である場合に、正当な代理権を与えられているかどうかを審査するに当つては、印鑑証明書のもつ重大な機能に考え左記のごとき注意を用いなければならない。
すなわち、印鑑の照合については、もし両者の同一性に疑わしい点がある場合には、肉眼で見るだけではなく、少くとも拡大鏡等を使用して確かめる程度の審査をし、証明に過誤のないことを期すべきである。もし、印鑑の状態の変化、押捺方法と用紙の差異などにより、照合が困難であるときは、吏員は証明願を出し直すことを求めるか、照合を拒絶すべきであり、前記条例にもその趣旨の定めがある。
また、本人の申請に基づくものでない場合には、その代理人の正当な代理権限の有無について、殊に厳重な確認方法をとるべきことは勿論である。例えば本人と代理人の関係について、代理人の続柄、住所、氏名、年令、職業等につき十分な調査をし、なお疑問がある場合には電話を用いて直接本人に問合せるなど、万全の措置を講ずることを要する。
本件の場合において、被告吏員が、印鑑証明書を交付するにあたり、どのような措置と注意をしたかについてみると、証人横須賀和子、同川崎保男の各証言によれば、川崎福之介名義の印鑑証明書の交付を申請したのは、深谷きみ子であり、その印鑑を照合するにあたり、肉眼で照合しただけで間違いないとした事実、また代理権限についても、きみ子が福之介の実子であるということを、たまたま知つていたというだけで、何ら代理権限について審査せずに印鑑証明書を交付した事実が認められる。
そして、《証拠》によれば、深谷きみ子が、印鑑証明書交付の申請にあたり使用した印鑑は、大体の形は届出印鑑と類似しているので、一見して偽造印と断定することはできないが、全体として、届出印鑑の字体の方が細くはつきりしているのに対して、字体がぼやけていて丸味をおびており、字の各部を細かく観察すれば、明瞭に異る印鑑と断定し難いとしても、その同一であることに疑問を起させる程度の差異が四箇所あり、これらの差異を認めることにより、前示のごとき方法を用いて調べたならば、申請に使用された印鑑が、偽造印鑑であることを判別することは、そう難しいことではなかつたと認められる。
それゆえ、被告の吏員は、印鑑照合、及び代理権限を有するかどうかにつき確認すべき義務を尽したとはいえない。これは、本件印鑑証明書交付の際、印鑑条例に、前記の如く、第一三条第三項のような代理権限を制限する趣旨の規定がなかつたからといつて、異るものではない。したがつて、印鑑証明事務を取扱つた被告市の吏員に、過失があるといわなければならない。
次に、被告市の吏員の過失により、印鑑証明書を交付したことと、原告が損害をこうむつたことの関係について考察すると、
前判示の如く、被告市の発行した印鑑証明書が、本件貸借に利用されたため、原告に貸付による損害が生じたものであるが、手形取引においては、印鑑証明を使用することは必須の条件ではないとしても、しばしば行われるところであり、一般に虚偽の印鑑証明が発行された場合は、それが不正に使用され、ひいてはその相手方に損害を及ぼすことは世上あり得ることであり、また当然予測し得るところであるから、被告はその吏員の過失により、原告に対して、その損害を賠償する義務を免れない。
四 よつて、損害額について判断する。《証拠》を綜合すると、原告は、深谷きみ子に、昭和三九年一〇月頃から、川崎福之介、深谷きみ子、その夫の深谷長一の太陽カラメル株式会社(資本金二〇、〇〇〇、〇〇〇円位、長一はその取締役)の株券を担保として、数回にわたつて金を貸し、いずれもその返済を受けており、これらの取引から、きみ子が福之介の子であり、福之介が、那珂湊市有数の漁業家であることなどを知りえたが、深谷きみ子が福之介の手形を担保とする貸付を依頼したので、原告は、きみ子に対するこの種の金融は始めてであるところから、福之介が、銀行との取引に実印を使用しているというきみ子の言により、常陽銀行平磯支店に問い合せたところ、最初の取引から実印を使つていることが判明したので、福之介の印鑑証明をつけることを条件として、手形貸付をすることとしたこと。その後きみ子が、その印鑑証明書を持参したので、手形の印鑑と印鑑証明の印鑑とを照合した結果一致し、その際、きみ子の父も上京中であるが、ここには来られない旨の言を信じ、福之介に直接問合せなかつたこと、原告が取引銀行を通じ、福之介の信用を調査した結果その支払能力が十分であると判断し、福之介名義の前記手形担保として、一、三〇〇、〇〇〇円を交付した事実が認められる。
ところで、一般に、金融業者が貸借をするに当つては、相手方の資産、収入、将来の見込など弁済能力の基礎となるべき事項について、十分に調査をすることは、当然のことであるが、相手方が代理人により貸借をする場合には本人の意思に基いて行うものであることを確認するのは、最も重要なことに属し、本人と面接するなどして直接意思を確認すべきであり、このことは、担保提供者についても異るところはない。
しかるに、原告は、きみ子とのこれまでの取引においても、前示のような世間に名の通つていない、原告自らもその会社についたこともない会社の株券を担保に金融しており、川崎福之介名義の株券を担保にとつたとはいえ、同人とは面識もなかつたにもかかわらず、前記のとおり、自己の取引銀行を通じてその信用を問合せただけで、本人の意思については、ただきみ子の言と、印鑑証明書の印鑑と手形の印影とが一致することにより、福之介の意思に基くものと信じ、他に何らの調査をしなかつたのは、貸金の額を考えると、あまりにも簡省略に過ぎる方法であるとの感が深く、この点において、原告に著しい過失があるといわざるを得ない。
以上説示のとおり、原告は、金融業者として、自ら行うべき調査義務を著しく怠りながら、いわば一般人の利便をはかつて公証事務を行つている被告に、その損害の責任を多く転嫁することは許されないのである。これらの点を考慮すると、被告の原告に対し賠償すべき損害額は、金一九五、〇〇〇円をもつて相当と思料する。
五、そうすると、被告は、原告に対し一九五、〇〇〇円及びこれに対する本件訴状送達の翌日であることを記録上明らかな昭和四〇年一〇月三日から支払のすむまで、民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。したがつて、原告の請求は、この範囲においてのみ正当としてこれを認容し、その余は失当として棄却。